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「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだならば、豊かに実を結ぶようになる」
(ヨハネによる福音書第12章24節)
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詩の中の句読点。不完全な考察。

2009/09/03 22:04
詩でないエントリを書くのは10ヶ月ぶり、
ある程度理性的な文章になると、2年ぶりだろうか。


題目は、詩の中の句読点。そのままである。
詩に、句読点を入れるかどうか。一般的な考察である。


まず個人的には、当然のことながら、「詩には句読点を入れるべきだ」「入れるべきでない」
といった意見は持っていない。
最も根底にある考えとしては、詩はあらゆる点において自由であるべきであり、
句読点を入れないことによって伝わるものがあるならば入れなければいいし、
逆に入れることによって伝わるものがあるならば入れなければいい、ということである。
ここにおいても、「入れないべき」「入れるべき」という考えではないことに留意。
一人の詩書きとして、詩書きは縛られるべきでないと思う。


さて、私は、句読点に関して詩は自由であるべきであり、その点に関しては、それほど異論が出るものでもないと思う。
しかし、気づいたことがある。
詩の投稿サイトを見ていると、殆どの詩に句読点がないのである。
統計は取っていないが、おそらく9対1かそれ以上の割合の差がついている。

句読点のある詩は、圧倒的に少数派なのである。


ここで、私自身の詩作を分析してみる。

 時期  あり なし
-2007年  7  24
 2008年 31  2
 2009年 52  3
(非常にアバウトなカウント。英詩は除く。微妙なのは印象でカウントor除外)

非常に明確な傾向が見られた。

初期の作品は、すべて句読点なしである。
句読点のある最初の作品は、長編でやや異端な作品である、2007年7月の『雨の薫り』、
普通の作品では、2007年10月の『春待人』。

いわゆる詩作のセオリーに最も縛られていた時期であるかもしれない。

やはり、「詩」のイメージとしては、句読点のない文、というのが一般的なのかもしれない。
そして、詩というものは、哲学的な何か、人の心の真理を、言葉を通じて語りかけるものでなければいけない、
という考え方に縛られていたのかもしれない。

無論、今でも詩が語りかけることの重要性は認識している。
しかし、今は、良い意味で、肩の力を抜いて詩を書けている気がする。


言い方を変えると、
初期は、詩が伝える内容に縛られすぎていた。
今は、全体的な内容よりも、一つ一つの言葉の意味や感触をより重視している。
とでもいえるだろうか。

一つ一つの言葉を重視する上で、個人的に重要視していると思われるのは、
日常の、自分の、言葉を綴ることではないだろうか。
語りかける主体があるからこそ、受け取る主体が存在しうる。

口語体で「僕」が「君」に話しかければよい、というわけではない。
むしろ逆だ。

形式のためだけに、白々しく、「僕」が「君」に語る作品ほど、
書いていて、読んでいて、反吐が出るものはない。


ただ、語る一つ一つの言葉に、「こころ」がないといけないのである。

書いている者の自己満足、と言えば、まさしくそうであろう。
そして、自己満足の得られない詩作ほど虚しいものはない。


文に「こころ」があるかどうか。
そんなものは、抽象的な概念でしかない。


ただ、ひとつ言えることがある。


私たちが普段、会話をするとき。
その言葉、文章には、必ず、「句読点」が存在する。

逆からのアプローチ。
句読点のない文章、詩を音読する。
すると、平坦な文章になってしまう。
「こころ」を与えるためには、句読点が必要なのである。

無論、これは個人的な詩作のセオリーであり、
句読点のない詩作を否定するものではない。

句読点がなくても、「こころ」が伝わる詩は当然ありうる。

ただ、自分の詩を眺めたときに、言葉に「こころ」を乗せるのには、
句読点が必要なときが多い、ということである。


今日言いたいことはこれくらいだろうか。
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「automaton」

2009/07/28 22:03
「君は誰?」

「私は、誰だろう」


「君が手に持っているものは何?」

「私が手に持っているのは、虚空」


「君の瞳に映っているのは誰?」

「私の瞳に映っているのは、暗闇」


「君は、何を待っているの?」

「私が待っているのは、明るい未来」


「君は、どこを目指しているの?」

「私が目指しているのは、あの光」


「君はなぜ生きているの?」

「君はなぜ生きているの?」
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「deja vu」5

2009/07/23 23:10
新しい朝は、いつも暗いわけじゃない。

少し眩しいくらいの日射しが、

微笑ましく感じるくらい。

ときが経てば、

少し前には考えられなかったくらい、

輝く未来が弾けた。

そんな光はいつだって、

安寧を孕み、

安息を誘いつつも、

闇と背中合わせ。
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「all night」

2009/07/20 00:08
あたしが目覚めたのは、
真っ赤な太陽が笑う夕焼け。

ふと、三日月と喧嘩する君を思い出しながら。

あのときの言葉を、まだ覚えてる?


一秒ごとに堕ちていく温もりを感じながら、
あたしは笑ったの。
また明日輝けばいいじゃない。


残響とともに減衰するのは、生きる希望。
刻一刻、沈んでいく。

ほら、向こうには、今にも消えそうな光が煌めく。
束の間の三日月は、厚い雲が覆った。

そんな笑顔じゃ、振り向いてくれないよ?
わかってる。だけど、うまく笑えないの。

暗闇が襲うのは、きっと、そこに光がないから。
輝く想いがないから。
雲を吹き飛ばす風は吹かない。

明日にはきっと、もう少し強くなる光。
今日はまだか細いその体躯を眼の端に映す。

届かない。届いてくれない。
想いは届いてくれない。
だから、明日まで、暖めていて。


夜半に浮かぶ、真昼の月。
いつしか雲も晴れ、眩しいくらいに語り掛ける。

大声で叫べば必ず届くと思ってたあの頃、
待つことを教えてくれた。
囁くことを教えてくれた。

育った種でさえ、生きてゆけるかわからないのに、
あたしはただ前を向いて歩いてた。
道標を頼りに。


明け方が近くなって、空が力を失い始めた。

明日出会えるかも不確かな命に、
できることは言葉を掛けることだけ。

いつかまた 会いましょう。


東の空が生まれる頃に、
あたしはまた、
眠りにつく……。
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「deja vu」4

2009/07/18 21:28
毎日が真っ暗で、

生きる希望が見えなくても、

支えてくれる人がいたから、

少しずつでも、生きていられた。

日々はまだまだ暗いままで、

たまに本当に苦しくなったけれど、

だけど、まだ生きていけた。

かけがえのない命をくれた友人に、

「ありがとう」も言えなかったけど、

……生きている。
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「deja vu」3

2009/07/12 16:44
手を伸ばすことすら躊躇われて、

ただ蹲ることしかできなかった。

もう一度、立ち上がって、

世界を見渡したかった。

でも、できなかった。

また、見捨てられたら、

今度こそ、二度と立ち上がれない。

生きるということからも放逐されてしまう。

だから、ずっと蹲っていた。

でも、ひとりじゃなかった。
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「deja vu」2

2009/07/11 23:57
暗闇だろうか。あえて形容すれば。

2年前のあの日から。

何も映らない鏡を眺めた。

ずっとずっと、眺めていた。

時折光る刹那、映るのは絶望の牙。

何も見えなくて、

何も見たくなくて。

生きること以外のすべてを拒んだ。

生きること以外のすべてを憎んだ。

そして、世界のすべてから放逐された。
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